人々は幾日もの間晴れない霧を憂いていた。  太陽が高く上がる刻限となっても弱々しい光が射し込むばかりで、霧が薄れる気配はない。それどころか一層濃くひんやりと、集落を包み込むかのようだ。 「ぬしどのがおいでかな」  歌い巫女の婆様がそう言うのに、年寄り連中はうなずき、壮年の者は記憶をたどるかのような思案顔となる。訳も分からず首をかしげるのは子供たちだ。 「ばばさま、ぬしどのって?」 「雨の林に暮らす大精霊さまさ。ときどきこうして、霧を渡って人里に下りてくることがあるのだ。そうなれば人の土地は、ぬしどのの泳ぐ霧の湖の底に沈んでしまう」 「そんなあ。ずっと、このままなの?」 「ぬしどのがおられるうちは、そうだろうね。お帰りいただかねばなるまいよ」  婆様は皆にごちそうの用意をさせた。  大人も子供も晴れ着と澄んだ音を立てる鈴を身につけて、ごちそうを並べた広場に居並ぶように言いつけた。  すっかり準備が整うと、婆様はどこからか出して来た細い煙管を手に、なにがしかのまじない歌を一節、短く口ずさんだ。  すいと煙管を吸って、ふうとまあるく煙を吐き出す。歌う、吸う、吹く。繰り返し。  吐き出されたまるい煙は大きく小さく、長く短くも姿を変えて、雨の林に棲む動物たちの姿となった。  葉の燃える匂いはない。ただ湿った土とみどりの匂いがする。それはただ、霧に仮初のかたちを与えたばかりのものであるようだった。  霧の動物たちは辺りを飛び跳ねた。人々の隙間を行ったり来たり。引っ掛けられた鈴が涼しい音を鳴らす。  霧はますます深くなり、もう隣の仲間の顔も、あるかないかの幻のようだ。  人々が静かに見守っていると不意に、霧の向こう側の天に影がさした。確かな形はわからない。ただ、大きな大きな影。  影はゆっくりとごちそうの並んだ広場へと降り立ち、けるけると不思議な音を立てた。池の傍で同胞に呼びかけるかえるの声に似て、水がめにしたたるしずくの響きに似て、そのどちらでもない美しい音色だった。 「……ぬしさま?」  だれかのつぶやきに応えるかのように、霧の湖を泳ぐ大きな影はころりと鳴く。 「さあ、歌うよ。おまえたちも」  歌い巫女の良く通る声に続いて、集落の人々は歌った。祝いの席には欠かせない、朗らかな調子の歌だった。ほんの少し節をずらしながら皆で歌い繋げるのだ。  人々が繋ぐ歌のそのまた後を、けるける、ころろの声が追いかける。霧の動物が踊る。大きな影も跳ねる。明るい輪唱は霧に満たされた天高くまで昇る。  やがて霧の向こうの大きな影は、けるけると歌いながらゆらゆらと揺れながら、霧の動物たちを従えて再びどこかへと遠ざかって行った。  あれだけ深く立ち込めていた霧もいまや薄れつつある。  残された人々が広場に見たのは、すっかり空になった酒のかめ壺と、ごちそうの皿だけなのだった。

▼あきさんへのお題は、 【霧の両生類】、【美しい】、【歌う】です! 予備:【虹の向こう】

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